2011年6月 カナリヤの視点

Blog カナリヤの声

原発と日本ムラ社会の構図― 正義が陽の目をみる日は遠く 原爆被爆からから66年、再び繰り返された被曝災害 東日本大震災と原発の事故発生から3か月近くを経過しても、被災地の人々は余震と放射能被曝の恐怖の中で黙々と生活再建に臨む姿を、海外では日本人の「品位」として評価していると報道されている。 しかしこの姿は、福島での原発事故を「自然災害だから」受け入れなければ仕方がない、と絶望の淵で認容する日本人の心であることは、かつての広島や長崎での被爆者も、また水俣の被災者も同じ忍耐を強いられてきた記録からも解することができる。地震・津波等の物理的な天災ではない目に見えない放射能漏れの危険性について、被災者には知らされていないとすれば、知らさずに済むことと放置されてきたと考えられる。それは、国民に詳細情報を公開しない日本の統治手法であり、ヒロシマ、ミナマタにも共通している。 欧米の市民と報道は、日本の政府当局の対応に強い不信と疑念を抱いている。最も優先すべき政府の使命は、原発の作業員と周辺住民の命を救い、事故現場近郊の市町村を守ること、十分な情報公開を行うことである。日本政府は当初から全てを知っていた、これらの地域では高い放射線量が把握されていたにも関わらず、退避勧告が迅速に出されなかった。そして何週間もの間、住民達は何も知らされなかったと指摘している。 福島の事故では長期に渡って放射性物質が撒き散らされている。事故処理にかかわる作業員の被曝、被災地住民の被曝は避けられない。原子力による大規模な汚染が一度起きた後は、「普通の状態に戻る」ということはあり得ず、人間の生物学的、社会的、精神的な生活だけでなく、まだ生まれて来ていない未来の世代の存在までが、原子力によって既に破壊されてしまっている、と欧米からの現地視察による報告が公表されている。 しかしながら、経済成長のみを追求する国策は変わらず、戦後が始まって以来の国難の時に、政局はせめぎ合いの無責任さを露呈し同じ過ちを繰り返している。原発の危機を警告して40年、不遇にも屈せず通した知識人の良心と正論は、今、脚光を浴びているが、小出裕章氏(京都大学助教)は産官学の強固な共同体である「原子力村」に加わらない科学者の意見は徹底的に無視され、今日に至ったと語っている。 国を挙げての「経済優先システム」日本ムラ社会は、地域・住宅・学校・職場にも旧態依然として張り付いている。どのムラ社会においても不都合な事実を告げれば、排除され抹殺される仕組みも同じではないか。50余年前、わが国にテレビが普及した頃に、評論家の大宅壮一と作家の松本清張が「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない」と指摘したとおり、現在では「テレビこそ真実」という確信を抱くに至った国民層は、産官に都合の良い情報を疑うことなく受け入れる主権者となっている。一億総白痴化の予言は奇しくも原発の設立時期と一致しているが、深刻なことは、この国民層の多くが、そのことに気づいてもいないし、問題意識さえもっていないことである。これがムラ社会の中の大きな勢力となって産官学民を形成している。 今、最も恐れ憂えることは放射線の影響を受けやすい子どもたちへの被曝である。チェルノブイリの悲劇を繰り返さないために、また、新たな事故の発生を考えれば原子炉の廃止と自然エネルギーへの転換政策が早急に望まれる。小出裕章 氏は、原発以外の発電設備能力や最大電力需要量のデータを基に「私たちが決断すれば全原発を即刻やめても困らない」、「赤ん坊の放射線感受性は成人の4倍」と指摘して「今なすべきことは子供を守ること」が第一。子どもの屋外活動制限基準の年間20ミリシーベルトについて「私は許せない。戦時中のような疎開の必要性を真剣に考えている」と語っている。 真実を追求する科学者たちの数々の提言を称え、産官学民の日本ムラ組織には一層の警告を願いたい。福島原発の事故以降、市民による脱原発の声は拡がっている。脱原発デモには何千人もの市民が参加しているところに、一筋の灯りが見える。「のぞみさえすれば、この危険な度合いを減らすことはできる。20億年あまりにわたって原形質生物から進化し淘汰されてきたこの遺産を守ることができる。この遺産は私たち一代かぎりで使っていいものではない。だが、私たちは、その保全を心がけて行為することはあまりにも少ない。」 『沈黙の春』より